新聞を取り巻く状況とネット文化とは、「ネット社会の情報と言論〜新聞ジャーナリズムの将来」(上)
「ネット社会の情報と言論〜新聞ジャーナリズムの将来」をテーマに毎日新聞労働組合と市民団体「ジャーナリズムを語る会」が開いた「第21回毎日新聞社編集綱領制定記念のつどい」に出席してきました。参考になる部分も多かったのでイベントのログを紹介します。なお、ディスカッションしながらでしたので、各パネリストの発言について正確に記録・反映できていないことをご了承ください。
パネリストは、ジャーナリストの佐々木俊尚さん、東大大学院情報学環の林香里准教授、コーディネーターは上智大学の橋場義之教授です。
◆パネルディスカッション◆
橋場、まず新聞の存在感について。インターネットでもいろいろなツール、テクノロジーができていているが変えるきっかけになるのでしょうか。
佐々木、新聞社を辞めてからもマスメディアはどう変化しているのかをテーマに取材している。おおむね2つぐらいの問題がある。一つは「言論そのもの」の問題、もう一つは「新聞」の問題。
新聞は毎日読めば世の中が分かるというフィルターされたメディアとして成り立っていた。今は、格差社会になり、個人の興味も分裂している。一つの興味を新聞にまとめることができるのか。誰のニーズに合わせるのか。
もう一つはビジネスの問題。記事は無料という波が広がっている。若い人は記事をウェブサイトで無料で読んでいる。新聞の必要性は認めているが、無料になっていて収益を得られるかどうか分からない。
橋場、佐々木さんは新聞を読んでいますか?
佐々木、朝日と日経、日経流通、日経産業を読んでいる。RSSリーダーと呼ばれるツールで読んでいる。先日、朝日の記者が育児休業で新聞を読んでないことをネットで明らかにしていたけれど(朝日新聞記者の子育て日記:子育てママに必要な情報とは?(女性編))、そうなっています。
林、私は大学で教えているので若い学生と交流する機会がありアンケートをしています。新聞を読んでいる人は多くて20%、15%ぐらい。特に、東京の私大で一人暮らしの多い大学では少ない。両親が取っていたらなんとなくテレビ欄を見ている。
東京大学情報学環では、大きな情報マネジメントのなかにマスメディア、ジャーナリズム研究が位置付けられている。マスメディアは研究の中でも相対化されている。研究者の中には「僕は新聞を取っていない」という方もいる。「検索ができない情報は嫌だ」と。情報化社会のひとつのキーワードは検索という機能。紙の新聞はそこが弱い。それから女性は特に「集金の人が嫌だ」という声がある。若い人にとっては余り良いイメージを持たないが、新聞社、新聞というジャーナリズム、情報を提供することはまったく疑問を持たずに必要と思っている。言論としての新聞は必要という合意はある。
藤代、ブログを知っている人は会場にどれくらいいらっしゃいますか(数名が手を上げる)。ブログと言うのは非常に簡単にインターネット上に情報発信が出来るツールです。
新聞については「読んでいる」と言うのと、「取っている」と言うのは違うことを押えておきたいところです。キーワードは時間。非常に忙しくなっているので、時間が足りない。新聞を取っていても、郵便受けからそのまま読まずにいることもある。
橋場、新聞が読まれなくなって新聞社の経営がまずくなっている。新聞離れについて、その理由も含めて考えを。
佐々木、新聞に何を求めるのかということ。いまは新聞以外にも情報が入ってくるメディアがある。昔は映画館でニュースを上映していたが消えてしまった。一日のうちに人が入手する情報には限りがある。テレビも新聞も、本も、ゲームも、ネットもやりたい。情報が入ってくるという手段がたくさんあり、アテンションが誰が獲得するかが重要になっている。新聞はアテンションを取れなくなってきている。
橋場、新聞を日本人がどれくらい見ているのか。NHK放送文化研究所が毎年調べている国民生活時間調査によると、2005年のものですが、国民全体で言うと21分、働き盛りの30代10分、20代は6分、10代2分、60代は44分。女性30代は8分、40代は16分。世代間ギャップが起きている。
林、ネットというより携帯電話を使っている。授業中に携帯を利用している学生がいると注意しますが、携帯からの情報摂取が非常に大きい。忙しい、時間が限られている中で、新聞の文化が相対化されているのではないか。
マスメディアを志望するか学生に聞くと、テレビは10数%いるが、新聞はほとんどいないか、すごく少ない。
橋場、ネット文化はどう作られているのですか?
佐々木、インターネットは「場」でサラダボウルのような存在。いろんな情報が放り込まれている。朝日や毎日が書いた記事もある、アマゾンの本を売っている、個人が書いたブログも放り込まれている。みんな同じ扱いを受けてしまう。
新聞にも声欄、読者投稿欄があるが、編集部がチェックして読者と書く側の非対称だった。テレビや雑誌はプロセス、ネットはオープン。どんな反論があるかも見えてしまう。やりとりが目に見える形になっているのが、ネットとマスメディアの違い。
橋場、新聞は情報をシャワーのように降らしていたけれど、一人一人がみんなに伝えられるようになった。大企業に独占されていたのが、誰でも可能になったということですね。
そのネット文化とビジネスがジャーナリズムの関わりでどうなるのか。ジャーナリズムはもっぱら新聞を中心に考えられてきた。新しいジャーナリズムが生まれつつあるとすれば、どのような事例があるのか。
佐々木、ネットは国境を越えるといわれているが、日本と韓国、アメリカでは違う。盧武鉉政権はオーマイニュースという市民サイトがきっかけとなって出来たと言われている。アメリカでも大統領選挙をやっている。マスメディアの影響は大きいが、政治や経済について語る論壇系ブログが軸となって、ブロガーたちの大統領選挙を考える集会を開いてヒラリー・クリントンが出席している。
日本は2005年にライブドア問題と郵政解散選挙があった。ライブドアについては、マスメディアは叩いたがネットではバッシングは少なかった。選挙では、日経ビジネスがコラムで「2ちゃんねるで小泉支持が高まっているが、実社会に影響があったことは過去一度もない」といったような記事を掲載したが外れた。ネットユーザーはそのとき、マスメディアと対立している、対抗しうる勢力なのだと気付いた。
林、ネット文化によってサラダボウルにいろんな情報が出てくる。市民一人一人が情報発信者となれるのは非常にいいこと。1960年代に鶴見俊輔が「日本のジャーナリズムに希望があるとすれば市民の活動のなかにある」と言って生活綴り方運動を支持した。もう一方で、そういいながらも、いろんな問題がある。劇場政治、アメリカだとサウンドバイトポリティックス、イメージ戦略が強くなっている。メディアスクラムも相変わらずある。
他人と違うことが情報になり、小さな情報で差異化する。新聞もその渦中に巻き込まれているんじゃないでしょうか。
藤代、私も鶴見俊輔さんの「ジャーナリズムは人々日々の記録活動にある」という発言はその通りだと思います。ただ、問題点を挙げるとすれば私刑をする人が増えていると思います。私は「私刑化する(が横行する)社会」と呼んでいます。
マスメディアは罪が司法によって下される前に、人を私刑にする、社会的な制裁を行ってしまう機能があります。つい最近も、官僚が逮捕されたり、四国で殺人事件がありましたが、推定無罪の原則にもかかわらずマスメディアは犯人扱いしています。四国の場合は別の人物をまるで犯人かのように報道しているメディアもありました。この後、逮捕された人たちが絶対に有罪になるとは限らないのです。そういうマスメディアの悪い部分がネットユーザーの一部にも見られることがあります。
自由にかけるというのは非常にすばらしいことですが責任があることを忘れてはいけないと思います。
◆追記◆
吉野家の「テラ豚丼」騒動も私刑の一例と言えるでしょう。吉野家が事態に対応する前から、「処分はしないのですか?」と問い合わせたり、「処分しないと言っている」といった記事を書いたりすると、吉野家は対応せざるを得なくなるという構図です。吉野家に限らず、ユーザーやメディアから問い合わせがあるなか「それは社内問題です」と答えることが出来る企業や組織は少ないでしょう。
ミドルメディアの登場と一部の既存のマスメディアのウェブ情報への参入で、CGMの情報がすぐにポータルサイトや紙の新聞に掲載されるようになり、私刑の加速度が増しています。騒動を大きく取り上げているマスメディアがありましたが、それほど社会的な意味があるようには思えず、以前にも増して脊髄反射的な記事が増えている気がします。
パネルでも指摘しているように、当事者が処分を決める前に、メディア(ブログや掲示板に書き込んでいる人も含む)が流れを作って決めてしまうという状況が本当に良いのか。もし「冤罪」だったらどうするのか。問題とされてきたメディアスクラムが、ネットとマスメディアが共振して起こるとすると、渦中に巻き込まれた人は逃れようがありません。言葉が難しいのですが、管理しあうというか、息苦しいというか、ネットによってせっかく個人の情報発信が可能になったのに、もったいない気がしています。
参考
- 糸井重里氏の「屁尾下郎」氏のツッコミが世の中を詰まらせる
- 「炎上」の発火源?・マスコミとブログつなぐ新メディアの台頭(日経IT-PLUS)