ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

つながりのジャーナリズム 寺島英弥さんとの対話 第4回「幻想のハッピーエンドなんて誰も信じていない」

当事者が引き裂かれていく中で、地方紙記者の役割を「他の世界とつなぐ」ことに見いだした河北新報の編集委員寺島英弥さん。東日本大震災による影響で新聞発行が危ぶまれる中で、ブログの扱いは「ベルリンの検問所のバーが突然上がった」ようになり、寺島さんは狭い「新聞盆地」を飛び出し、ブログで東北の様子を首都圏や全国の人に届けた。
ソーシャルメディアによって誰もが情報発信できるようになる中で、地方紙記者は当事者とやり取りをする中で、新しいつながりを生み、希望を紡ぐ。

寺島:伝えたい。だけどいろいろ壁にぶちあたっている記者もたくさんいるわけで。震災報道は、終わりのないマラソンみたいなものなので、その中で疲れ切っていく。自分達も希望が欲しいというのは、みんなで話し合ったということがあるわけではないんですよね。それが報酬みたいなものになっている。

藤代:希望が。

寺島:希望があるんですね。

藤代:僕はすごく嫌なんですね。地域に希望を見いだそうというキャンペーンが…

寺島:地域に希望という…

藤代:なんというか、希望を見いだすことが目的化する記事があるじゃないですか。地域を活性化させようとか。

■希望や地域活性化が目的化する記事

寺島:たいてい自己満足ですよね。宣伝みたいな。

藤代:そう。宣伝みたいな。
でも、寺島さんの記事はそうではないと思うんです。被災地は苦しいけれども、被災地で起きていることは現実を顕にしただけじゃないでしょうか。どの地方だって、人口は減って、若い人も減って、地域産業は苦しい。東京からのお金に頼って、自立が難しい。それが被災地で顕在化しているに過ぎないと思うんですよね。そして、地域を応援するキャンペーンをやる地方紙ででてくる。それって非常にうさんくさい。

寺島:まあ、伝統技ですけどね。

藤代:そう。地方紙のお約束。でも、寺島さんもこれまでのキャンペーンと同じような話をしていると思うんですよ。でも、どこが違うんですかね。

寺島:先が見えない。先が分からないんですよ。ハッピーエンドがあるわけではなくて。幻想のハッピーエンドなんて誰も信じていないし、最悪のことをみんな胸に秘めながら会話をしているんですよね。それを口にしないまでもですね。もう故郷に戻れないんじゃないかとか、あの子はもう帰ってこないんだとか…
最悪のことを経験したり、最悪のことを思いながら、だけど口にせずに向きあってるのが、今の状況だと思うんですね。だから幻想のハッピーエンドなんてまずあり得ないし。そんな先の希望なんて誰にも示せない。自分のことすらわからないんですからね。
だから、その日その日の希望だと思うんですよね。ちっちゃなろうそくの火みたいなもの。共同幻想としての希望なんてものはたぶん誰も信じていない。それぞれに置かれた状況がもうあまりにも違うし、家が残った人、流された人、放射線量の関係で家に帰れる人、帰れない人とかね。だけど欲しい。

藤代:そうですね。

寺島:だから今までのような地域キャンペーンのようなあり方ではないんですね。

藤代:でも、なんかたぶん本当はそうだったんじゃないかなあって思うんですよ。僕の故郷の徳島でも、島根や鳥取でも。口には出さないけれど、この地域が終わりだなと思っている人いるような気がするんです。

寺島:ああ、なるほど。

藤代:だから、これまでの新聞の地域おこしキャンペーンのような安易な答えを出すことが軽いというか、説得力がなくなってきている。寺島さんの言葉が胸に響くのは、被災地の人だけ響いているわけではないと思うんです。多くの人が反応して、東京の人も読んでくれる。
僕が思うのは、誰しもが幻想のハッピーエンドなんてないって分かっている。だけど、小さなその希望がないと心が折れてしまう。

■ちっちゃな希望の火を分かち合うブログ

寺島:フィクションでは作り出しようのないものがある。自分たちが向き合うのは、リアルな現場の人達。特にその中のこう、なんか一個一個の、なんていうんだろうなあ。一個一個のちっちゃな現実の中の希望の火というのを分かち合ってくれる人もいる。これはブログで分かりました。

藤代:ああいう現実を見せられて、答えないじゃないですか。寺島さんのブログには、答えなんて載っていない。でも、けっこう苦しいと感じる読者もいるんじゃないかなと思うんですよ。答えがない原稿ってけっこう辛いんじゃないのかなって。記者のなかには、結論を書かないのはおかしいという人もいるかもしれない。新聞には結論が書いてありますからね。

寺島:記事の前文には、その時点で切り取った結論がね。それがリード文ですからね。
自分たちが抱いたほっとするものが次々と覆されてきたという連続だったんですよ。こういう方針で行こうとなったときに、ホットスポットが見つかったり、ある日突然政府から避難しろと電話がかかってきたり。だからもう何を信じたらいいのかわからないという。それまで何世代にもわたって引っ越しなんてしたことなかったような人達が、仮設住宅にいたりとか、息子娘を頼って首都圏にいったりとか。
何というのかなあ。「ふんばる」でもブログでも紹介したのですが、飯館村から福島市の仮設に避難したおばあさんたちの活動。昔着てた服をつくり直して、また着てという伝統があって、それを仮設住宅で取り組んで「までい」という名前をつけた(仮設の日々を支える)。そしたら、その活動が3月11日に千葉のそごう柏店で展示即売をやったら、ものすごい人が来て400点くらいが完売した。
活動の師匠役になっている人も80歳を超えているおばあちゃんなんですよね。村を離れるというとき3ヶ月くらい寝込んで「死にたい」って言ってた人が、仮設住宅で桜祭りっていうお花見会をやるようになったんですね。歌を歌ったり、みんなでいろんなものを一緒に食べたり(までい着の母)。
こないだの土曜日にそこに行ったのですが、おばあちゃんが「自分が今生きているのは本当に不思議だ」と。「までい着の取り組みをやろうと言ってくれた人がいなかったら、私はいまここにいなかった」と泣くわけですよね。その時々の絶望みたいなものと、すごくちっちゃな嬉しいこととかっていうのの繰り返しなんですよね。
私がずっとふんばるで書いてきた佐野さんという人なんです。

藤代:はい。

寺島:とても明るくて朗らかの人なんだけど、飯舘村の自宅にものをとりにひとりで車で帰るときに、泣いてるとうのを初めて聞いて、私びっくりしたんですよね。果てしのない終わりのない繰り返しの中でみんな生きていて。その中で、自分が解決策を提案できるわけでもないですよね。
までい着の活動を紹介したり、師匠役のおばあちゃんがいると聞いたら、「ふんばる」に今度出てくださとか。小さな本当関わりに過ぎないんだけれど「死なないでよかった」という言葉を聞くと、記者にとっての報酬というのはそれなんじゃないかなと。

藤代:なるほど。寺島さんの記事は人生なんですね。人生って苦しいことがいっぱいあるじゃないですか。外からみてると順調に見えるような人の人生でも、とてもとても大変なことがあって。今日へこんだらまた明日いいことがあるの繰り返しっていう話はなんか人の人生とあんまり変わんないなと思ったんですね。寺島さんは、人間の記録をずっとやっているのかなあと話を聞きながら思ったかなあ…

■一人ひとりの人生が震災の歴史

寺島:ひとりのもの書く人間にできることなんていうのは本当に限られたことでしかないですよね。その人の人生変えるなんていうことはできることでないですからね。
でも、俺が思うのは、一人ひとりの人生が歴史なんですよね。ひとりひとりのその一日一日というのが。たった一日のことを一回のブログで書くわけですが、それが震災の歴史なんですよね。結局地方紙がやってきたことっていうのは… 東北大で河北新報が連携講座をやっていて…

藤代:はい。

寺島:非常勤で行ってるんですよね。そこで河北新報、地方紙の誕生と生き方みたいのを話しました。
河北新報は、明治維新で敗軍になって、貧しい一山百文だといわれたところから*1始まった。そういうところに原発がやってきて、たくさんの金が落とされて依存せざるを得なくなり、58基中の18基が東北にあるような。
でも、反対する人間のこともちゃんと書いてきた。南相馬市(当時は原町市)が防災計画が原発から10キロで終わりはおかしいと意義を唱えた記事だとか、100年そういうことを記録してきた。それは311につながっている。それが地方紙の役目なんだという話をこの前東北大の学生さんたち話したわけですよ。自分がやっていることはその延長線にあるものでしかないということを。新しいメディアを使ってですね。
ひとりひとりの人生に留まらず、歴史の記録だとと自分でどっかで思っているところがあってですね。だからやめられないというところもあるんですよ。自分のそのブログも終わりがないんじゃないかという風に覚悟していることがある。

藤代:途中で言おうとしてやめたんですよ。講演や講義で話すんですが、ジャーナリストっていうのは、反権力とか社会正義をとかじゃなくて、記録をする人だと。

寺島:立会人みたいなものですね。

藤代:はい。歴史を刻む人です。(続きます)
第5回「ブログを書く事で個のジャーナリストになれた」

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*1:白河以北一山百文白河の関より北は、ひと山で100文の価値しか持たないと新政府から蔑まれた