ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

つながりのジャーナリズム 寺島英弥さんとの対話 第3回「地方紙の記者は新聞盆地の住人だった」

河北新報編集委員寺島英弥さんは、被災地を丁重に取材する中で引き裂かれていく当事者を目撃し、厳しい状況の沿岸部から仙台に戻ることができる立場に罪悪感を感じたことをブログにつづります(三陸の被災地へ ・2日目/綾里)。
東日本大震災の被害者として「お互い様」な立場のはずの被災者と記者、被災者同士が同じではないという現実。アメリカで学んだシビックジャーナリズムであれば、多様な声をとにかく集めるフォーラムをつくる、となるところがとても言い出せない。報じる立場としてのジレンマをどう消化するのか。


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寺島:いろんな現場が多すぎて突き詰めることができなかった。現場に行かなくてはならないっていう生活。それもまた引き裂かれた自分ですよね。その中を往復しなければならないっていう。

藤代:そうですね。

■できることは外の世界とつなぐこと

寺島:これは自分の中でも解決できない。だからこそ自分のできること他の世界とつなぐ… 例えばジャズ喫茶の店主の話(ジャズ喫茶、みたびの夢/その1)もそうでした。被災地と外の世界というのが繋がったことで5千枚というレコードが大船渡にある。

藤代:そんなことになってるんですか。

寺島:3月11日に

藤代:再開したんですか。

寺島:ええ。だから、外の世界に繋ぐのはできる。「ふんばる」(河北新報の連載)という記事自体が東北への応援ということでやってきた。それをさらに首都圏まで繋いでということをブログの役割に自分なりにしたんですよね。例えば、福島県の新地町っていう宮城県境にある街にりんご農家があって(リンゴ畑に吹く風)。

藤代:ああ、はい。風評被害で注文が来なくなったりんご農家のお話ですね。

寺島:筑波の研究機関に毎月のようにりんごを検査で送って、やっと合格が出て、ブログやツイッターも始めて。「福島の農家は人殺し」という言葉もあるような中で勇気をもってネットに入っていって。それでもやっぱり注文が来なくて、というのをふんばるの中でもブログでも書きました。

藤代:読みました。

寺島:ブログがですねツイッターで繋がって、江川紹子さんがりんごを買ってくれたというようなことがあったり。なんていうんですかね。外と繋ぐ。外の世界と被災地のただ中との間にいる人間にできることっていうのはそれがあるのかも知れないというのがだんだんと思いましたね。

藤代:これって地方紙の今までの役割的にいうと、かなり逸脱があるんじゃないかと思うんですよね。地域の外と繋がっていくというのは、今まで全国紙がやってきたわけですよね。

寺島:でしょうね。その通りだと思います。

藤代:ですよね。でも、インターネットとソーシャルメディアの登場で地方の記者もついに全国の人とつながる事ができるようになったってことを僕はずっと言い続けてきたけれども、寺島さんがついにそれをやってくれたんだなって、すごく嬉しく思っていたんですよね。

寺島:藤代さんにそういって頂くと俺も目が覚めるような気持ちでですね、

藤代:でも実は難しいじゃないですか。寺島さん以外の人が、じゃあこれ外の世界と繋がるっていうと、実はどっぷりこう記者自身も

寺島:会社の中に?

藤代:会社の中もあるし、その東北っていう枠組みとか、宮城っていう枠組みであったり、の中にいてしまう。新聞記者って以外と交遊関係少ないじゃないですか。どうやったら、外とこういう、繋がれる活動ができるようになるんですかね。

寺島:あの、盆地の中の住人ですよね。ひとつのね。

■記者は新聞盆地の住人

藤代:そうですよね。新聞盆地みたいですよね。

寺島:新聞盆地ですよね。それぞれの新聞ってそういうものでしたもんね。

藤代:そうですよね。
悲から生をつむぐ 「河北新報」編集委員の震災記録300日
寺島:横に繋がりがなくて、ジャーナリズムの世界なんていうのも、実はそれぞれのなんかその新聞ジャーナリズムの世界があってそれぞれの古井戸の。

藤代:そうですよね。新聞は新聞。なかなか雑誌ジャーナリズムの人とは出会わない。(寺島さんのブログが本になった『悲から生をつむぐ 「河北新報」編集委員の震災記録300日はJCEJの前身イベントでの出会いがあった)

寺島:そうですよね。そういうところはやっぱり盆地の住民だった。藤代さんのようにそこを飛び出して、自ら道を開拓するしか生き方がないんだろうか。藤代さんをまぶしく思う地方紙記者もたくさんいると思う。

藤代:いやそんなことはないと思いますけど

寺島:そんなことないです。まあなんでしょうね。ひとつは、震災という渦中の中でものすごく状況が一変してしまったということあって。
ひとつ例にあげると、編集局の中でもそのブログの扱いが変わりましてね、ブログというかネットが開かれたんですよ。それは俺がブログで「余震の中で新聞をつくる」っていうのをやりたいんだっていったときに、編集局長が即座に「やってみたらどうだ」と言ってくれました。新聞は8ページしかなくて、新聞の危機だというのはまぎれもない。とにかく、あらゆる発信手段を試さなきゃっていう、そういう空気になった。それで、メディア局とか夕刊編集部だとかが、ツイッターを始めた
どうしても新聞社は取材で知り得た個人情報みたいなやつは書くなとかっていうのあったじゃないですか。

藤代:はい。非常に難しいですよね。どこまで、書くんだと。

寺島:そうですよね。ええ。だから結局コラムとか、デスク日誌だとか、そういう風なことしか書けないのかなという。下手に書くと炎上するぞ、炎上したらどうすんだというのが、上の人たちのブログ感みたいなものですよ。それが渦中ではとにかく試してみるしかない、やってみようというのがあって、要するにベルリンの検問所のバーが突然上がっていた、という風な。「さあじゃあ行ってみよう」という風な状況に似てるなと思ったんですね。だからありのままに書くようにしたんです。

藤代:寺島さんと取材相手との関係は相当ブログで書かれてますよね。

寺島:そうですそうです。この人がどんな状況でどういう風なことで悩んでいて、というのをありのまま書く。結局その、ありのままっていうのが、つまり、藤代さんの本(「発信力の鍛え方 -ソーシャルメディア活用術」)の中にも神は細部に宿るという言葉がありましたよね。自分もそうだと思っていて、それで出会った相手にはブログで書かせてもらいますからと伝えるようにしてます。
その人とは、2度3度と会っていく事になるわけですよね。通っていくことになるわけです。書いた記事を送って見てもらうと「これが俺の生き様だなあ」と相手が言ってくれるわけです。一度としてそれで抗議をもらったりしたことはないです。
もともと記者っていうのは、絶対的他者として当事者と出会うわけなんですが、新聞に記事を書いて、それを相手に送って、それによって信頼を得て、その人のことをさらにブログで書くという関係づくりが自然にできていったということが大きいのかなと。

■新聞記事ははじまりに過ぎない

藤代:それってもう、新聞記事がはじまりっていうことですね。全然終わりじゃない。

寺島:新聞記事ははじまりです。きっかけです。その後の変化の中から続報というのも何本か書いてきました。

藤代:それがすごくおもしろいなあと。普通の記者って新聞記事かいたら終わりと思っているじゃないですか。

寺島:ええ。多分。これは俺の思い込みかもしれないけど、全国紙だと遠くから来て取材してまた遠くに帰るとかってなると、一回の記事を切り取って、これが被災地の実情ですと書いてそれで終わり。地方紙の記者は、仙台に帰って、また峠をこえて会いにいく。新聞記事をきっかけに縁を重ねていくというんですかねえ。

藤代:うん。なんかこう、この寺島さんの考えを伝えるのがすごく難しいといつも思うんです。なんだろう。踏みとどまったり、一緒に生きていくっていうのはあるんだけど、日常に戻る罪悪感っていうのがあるわけじゃないですか。
やっぱり、さっきおっしゃっていた絶対的な他者として会うっていうのはやっぱりあるじゃないですか。その人の人生に変わることっていうのは私たちにはできないわけじゃないですか。生きるのはその人であって。でも、絶対的他者じゃなくて、繋がっていく。人間としてその繋がっていく関係。そういう関係って何なんですかね。ジャーナリストは、旅人的な一期一会だから書けるっていうのがあった。だけど地方は留まっているから、そんな簡単に書けない。さっきのお巡りさんとの関係みたいに癒着になってしまう(第2回を参照)のでもない。これは、一体なんか、どういう風な言葉で表現したら良い立場なのかっていつも思うんですよね。

■記者は人生を代われない

寺島:東京なんかで「こういうことやってるんです」と活動を説明すると「じゃあ客観性はどうなんですか」と質問されるんですね。客観性という言葉はすごくあの…客観性なんていうものさしはどこにもあるわけではないんです。都合のいいときに客観性という言葉を使っているだけで、主観でしかない。
現場にいって真っ裸になった人たちと出会ってのこちらも真っ裸になってその場所で付き合わない限り聞く事はできない。遠くはなれて、カメラで写真を一枚とったからって何にも伝えられるものはない。

藤代:どうしても対立軸的に考えてしまう人がいます。客観的なものと当事者、どちらかだという風に考えてしまうと思うんですよね。なんか今の僕たちの話はどちらでもないような気がしているんですよね。
なんかその、地方紙の記者って時に農作業を手伝ったり、収穫を手伝ったりしてしまう。僕とかもそうでした。でも、最後にその土地に踏みとどまってりんごをつくるのはりんご農家の人じゃないですか。記者じゃない。だけどもすごくシンパシーを抱いて、一人の人間としてその人と付き合って、そのなんていうんだろう。僕も答えはないんです。
僕はずっと誰もが情報発信できるようになったときの当事者や新聞社の役割について考えてきました。私はりんごを売ってます、風評被害で売れませんと伝えるのは、もはや当事者でもできる。そこに寺島さんがいって、話を聞いて、誰かになにかを伝えることの意味はどこにあるんでしょう。

寺島:そうですね。自分にできることは非常に限られていて… えー、俺は藤代さんにさっき取材するときにもう一人の俺がいるんじゃないですか、と言われて「はっ!」て思ったんですよ。そういったことを出会った当事者が知る事で、ひとつでもふたつでも新しい繋がりができることで、希望を見いだしていく。
また、記者達がという話に戻りますけれども、それぞれに被害を受けていて自分たちの希望も欲しいんです。記者たちも誰かがこんなことをやっているということを知って、希望を見いだしたい。そして読んでいる人と分かち合いたいっていうことがあるんですね。
二度目の3月11日が過ぎて、これからはどんどん風化が進んでいく。そして当事者が引き裂かれた状況というのが次々と出てくる中で、前のようにはなかなか東京からも取材が来なくなった、忘れられていくんじゃないだろうかとか、再建はいつなのかとか不安を持っている。その中で生き続けていくというのは本当に大変なことですからひとつでも小さな希望をつくっていきたい。(続きます)
→第4回「幻想のハッピーエンドなんて誰も信じていない
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