地方紙記者はウェブで通用する記事が書けるのか
今週末に迫った、日本ジャーナリスト教育センター(Japan Center of Education for Journalist)による「ジャーナリストキャンプ2011飯南」は、現役のジャーナリスト(とても幅広い意味です)が、企画、取材、執筆に腕を競い合う日本初のプロジェクトになりました。
ジャーナリストキャンプは2回目ですが、昨年のプログラムは企画をチームで作り上げるものでした。今回は、地元の山陰中央新報労組の有志が運営に入り、地元紙と全国から集まった人が同じ町を取材。記事はJBpressの協力でネットに掲載(掲載の可否は編集長に一任されており、掲載されない可能性もあります)されることになるので、実力差ははっきりと分かることになるでしょう。打ち合わせで川嶋編集長は「全部掲載して、ユーザーに判断してもらえばいいんじゃないの」とおっしゃっていましたが…
参加者は地元山陰中央新報の記者が半分、残り半分は地方紙、通信社SE、雑誌記者、NPO、PRパーソンなど、異種格闘技的ガチ勝負企画となっていますが、地方紙出身の私にとって新聞記者の書く記事がネットで通用するか。特に地方紙記者の記事がネットで読まれるか、というのは大きなテーマとなってます。
自分が新聞社を離れて色々な媒体(ネットだけじゃなく、雑誌や新聞、時には研究誌も)に書くようになって感じるのは、地方紙記者にもウデのいい人はいますが、新聞のフォーマットや切り口が古くさく、他媒体で通用するには厳しいということ。そして、一人のジャーナリストとして考えると一つの媒体でしか書けないのでは選択肢が少なくなってしまう、ということです。
最近の新聞社では、あれだけ敵視していたネットへの対応に追われ、ビジネスモデルという言葉も聞かれるようになりましたが、コンテンツ、つまり記者の書く記事についてはあまり議論がありません。コンテンツを変えようとすれば、書き方だけでなく、取材方法や問題意識も変わってきます。ネットというガワだけでなく、中身も大事なはず。ジャーナリストキャンプ2011飯南ではコンテンツにも切り込んで行きたいと思っています。
新聞記者の陥りがちな行政寄りの視点からの脱却もあります。
取材のヒントはどんなところにもあります。行政(企業もですが)に頼らず、小さなこと、日常から社会的な問題を描く。ネットの登場で多くの発表媒体が出来て、専門家や研究者が書いたも目に触れるようになりました。固定化された視点や常識を揺さぶるためには多様性が必要です。ジャーナリストキャンプの参加者が新聞記者だけでないのは、色々な視点をお互いに知り合うことが大切だと考えているからです。お互いの視点を尊敬し、そして自分がどこで力を発揮できるか探す。そういうプロのジャーナリストが増えるよう取り組んで行きます。
そして地方開催をするからこそ大切なこと。JBpressの編集長からのメッセージには下記のようなことが書かれています
なぜ日本の地方はミニ東京化してしまったのでしょうか。それは政治のせいだけではありません。メディアの責任も重大です。東京からの情報を一方的に流すのではなく、地方にある優れた産業や企業、文化を日本全国、あるいは世界に向けて発信する。そして地方同士の切磋琢磨を促す。これはメディアの役割であるはずです。それができれば、地方の疲弊を食い止められるし、日本が世界から忘れられるようなこともないはずです。
地方紙は東京からの情報を流し、国の指示を受けた都道府県の情報を地域の隅々に行き渡らせる役割を果たしてきました。中央集権的な制度を担い、ミニ東京化させてきた責任一旦があるのです。そして地方からの発信といってもその地域にしかメディアを持たない地方紙には難しく、通信社や全国紙が扱ってくれるのを待つしかなかったのです(東日本大震災で、全国紙が地方紙の記事をパクっているという指摘があったようですが、地方紙視点から見ればいつものことです)。
いまやネットを使って地方から直接発信が出来るようになりましたが、実は県内にしか配られない紙にしか書いたことがない記者にとっては頭の切り替えはそう簡単なことではありません。ブログやフェイスブックを使って情報発信をしている自治体職員やNPOの人たちのほうが分かっているかもしれないのです。
このようなプログラムに参加することはとても勇気が必要です。講演や勉強会には多くの参加者がありますが、書き手の力が試される実践的なキャンプへの参加者はとても少ない中で、参加を決めた皆さんが充実した時間を過ごすことができるように事務局と連携しながらプログラムを進めて行きたいと思います。
写真は飯南町で売られているイノシシ肉中華まん「飯南いのまん★いのっち」
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