ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

背筋が寒くなる話(忍び寄る影 2)

高田昌幸さんのブログで「そのとき記者は逮捕された」というタイトルの無視できない話がアップされていました。私は以前「忍び寄る影」というエントリーで、市民団体のビラ配り逮捕問題を書きました。そこで『平和や人権は本当に大切ですが、そのような言葉そのものに多くの人が胡散臭さや嫌悪感があることも知らねばなりません…(一部略、詳しくはエントリーをご参照ください)』などと、市民団体側のあり方も私なりに書きましたが、これはマスコミにもいえるでしょう。

高田さんのブログには、『明らかに悪意(他人の秘密を暴いてやろう)を持った第三者が、嫌がらせの様に呼び鈴を連打し、家の中を伺おうと周りをウロウロされた為、外にも出られない。取材する側とされる側をよくワイドショーなどでみますが、そういう風にみえてしょうがありません。』(通りすがりさん)、『民間警備員に逮捕されてしまったと言うことは、「誰かが誰かを訪ね、呼び鈴を押しただけ」の行為ではなかったのだろうと感じるのです。そして取材であることを説明できなかったと言う説明は、取材であると説明できればその行為は許されるはずだったと考えておられるように取れます』(素人の考えさん)などのコメントが次々と寄せられています(詳しくは高田さんのブログのコメント欄をご覧ください)。

記者が警察と親しげに話して毅然とした対処をしていないこと(そもそも警察は仲間ではないはずなのに、仲間だと思ってしまっているところに記者の意識レベルとマスコミの抱える問題点が伺える)、まったくなっていない社の対応など、権力への自己規制と馴れ合いが問題なのは言うまでもありませんし、しっかりとした記事を書いていくために事件関係者に取材することを否定するつもりもありません。


例えば、記者はこういう話を持ち出すかもしれません「取材相手にも接触しておかなければ、もし冤罪や不当な捜査だと困るではなか」と。しかし、このようなキレイゴトはあまり説得力を持たないでしょう(重要なのは分かっています)。例え、取材相手が無罪を主張しても、多くの場合当局の垂れ流し情報で紙面や映像は埋め尽くされるということは簡単に予想できます。一向に終わりもしないセンセーショナルな報道や事件被害者などへの集団加熱取材、権力者が権力にある際は持ち上げているのに、落ちれば一斉にたたく「落ちたムネオ叩き」…。


マスコミが当てにならないことは、ばれています。そして、マスコミが窮地に陥ったときに一番頼りになるはずの、読者や国民が冷ややかになっている。社会正義やジャーナリズムの必要性を叫ぶだけでは、非常に賛同を得にくくなっています。もちろん、マスコミが自らを律し、隠された情報を暴き、読者や国民のためにあれば問題はないのでしょうが、現実的に難しい…。その現実を変えるための努力は大切ですが、一方で、言葉は悪いですが、マスコミももっと「うまくやる」必要がありのではないか、そんな気がしてます。