「正義」とブロガーの「社会参加」について
『「天下りあっ旋問題」ブログは世論を作り出すことが出来るのか』というエントリーに対して
finalventさんから
脊髄反射的に言うと、くだらなすぎる。
脊髄反射的に言うと、大きな間違いだと思う。
ブロガーがどのように発言しても社会参加を意味している。
と指摘されました。「大きな間違いである」と言った瞬間にそれはfinalvenさんの正義を私に押し付けているに過ぎないのではないでしょうか(コメント欄を見る限り、finalventさんはそれは承知でしょうが、そうであれば少し言葉が足りない気がします)。
この種のバトンが「くだらない」と嫌気がさす人もいれば、「有意義だ」と思う人もいる。私は、あらゆるブロガーがこのような政治へのあからさまな関与を行う「べき」だと主張しているわけでもありませんし、それを批判するブロガーが間違っているとも思いません。人の考えはさまざまですから、「正義」もまた相対的なものなはずです(メタ批判をするなら、そのような正義が相対的であるという考えそのものがある種の正義を振りかざしているとも言えるわけですが…)。
一人ひとりの小さな「正義」をすり合わせていくことで、ある種の「合意」を作り上げていくのが民主主義であるとするならば、その際には自分の主張する正義が認められないこともあります。もちろん批判は自由ですが、出来ることなら正義を押し付けあうのではなく、お互いの言葉や行動を尊重しあっていくほうが前向きであるのではないでしょうか。
「社会参加」という言葉の概念をどう捉えるかといったことも重要なポイントになると思いますが、それもまた人それぞれなのではないでしょうか。私自身は、finalventさんが言う「ブロガーのどのような発言も表社会参加である」という意見に賛同する部分も多いし、そもそも公共圏(出来る限り幅広い概念として)における人のあらゆる表現は社会参加であると考えています。しかしながら、なぜ社会参加という言葉を限定的に使っているのか。
それは、エントリーについたはてなブックマークが端的にあらわしています
おい馬鹿新聞のヘタレ記者、コメント欄解放する根性もねえやつにはなにもできないことこくらい、自分でもわかってるだろ?w。なんだよそこ見落としてたよ。直流ブロガーなんてエントリ読まずに低能確定だよ。白痴が
確かにこれも社会参加なのです。
しかし、このコメントからは、コメンテーター自身が正義の押し付けを行っていること、表現によって社会参加しているということが自覚されているようには見えません。表現の自由は認められているとは言え、何を書いても良いということにはなりません。「低能」「白痴」といった言葉の利用には、市民社会の担い手であるシップというより、人間としての配慮が欠如していると言わざるを得ませんし、このような現状がある以上、本来そうとは思っていないし、危険な考えであることを承知で「ブロガーによる社会参加」という言葉を限定的に使わざるを得ないという判断があったのです。
公共圏におけるあらゆる表現が社会参加であるからこそ、あらゆる表現者、発信者がその自覚を持つ必要があるのではないでしょうか(というのも私の正義の押し付けなのですが…)。