ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

思考停止のスパイラル

あざらしサラダさんのエントリー「誰が加害者で誰が被害者?」を端緒に、現役記者を巻き込んだ議論が続いています。私も「教師がけしからん」という視点だけでなく、個人情報の取り扱いやパチンコ店での車上狙いについて、問題点の指摘があるべきだったと思います(一報が無理なら、記者メモやリポートでフォローする手もある)。そして、マスメディアが「誰かにかわって」社会的制裁を加えるような状況(思い上がり)が、メディア不信の原因のひとつなのは確かです。「メディアは事実だけを伝えればいい」という指摘が根強いのもうなづけますが、情緒的な記事のすべてが悪いとは思いません。

報道が端緒となり、社会の制度が変わったり、人を揺り動かす時があります。それは、複雑な計算や論理ではなく、記者が現場で体験・共有した怒りや悲しみがベースとしてある記事や映像が多い。記者の泣き、笑いが透けて見える文章は、読者の共感を呼び起こします(手紙や電話も多い。もちろん、批判が起きる場合もあるし、取材対象にのめりこみすぎるなどの注意すべき点もある)。問題は、今回のように「教師をワルモノにしておけばいい」というような思考停止なレッテルに安易に乗ってしまったり、「このような教師に怒る人が多いはずだ」という見込みがある場合ではないでしょうか? 無理にニュースを作ろうとしたり、無理に共感を呼ぼうとするような記事を書いたりした場合も同様でしょう。

彰の介さんが指摘しているように「大衆とマスコミの負の連鎖」も無視できません。教育がらみは特に投書や電話が多く、「あんな教師首にしろ」という電話がかかることもしばしばです。そうすると電話を取ったデスクなどは「やっぱり世間は怒っているのだ」となり、「教師悪。それもパチンコ!」の思考停止をより補強してしまうことになります。あざらしサラダさんは『感情的な意見は反対の感情的な意見を呼び込む』と指摘しており、確かにその一面はあります。ただ、人は感情的になっても議論はできます。逆に問題点が見えてくることも多い。今回は、あざらしサラダさんも2人の記者もきちんと議論の土俵に乗っています。お互いの立場を尊重しあいながら、問題点を洗い出そうとしています。


しかし、中には「教師」(記者、マスゴミ、政治家、なんでもいいが)がらみというだけで、問題点や議論の方向性と関係なく感情的になっている人がいます。それでは一向に解決しないでしょう。「教師が悪い」と決め付けるマスコミ(一部の人)の思考停止と「そんなマスコミが悪い!」と批判する人も思考停止のスパイラル(影の介さんの言う、大衆とマスコミの負の連鎖でしょう)が永遠に続いてしまう。政治不信が広がった際に「国民のレベルが政治化のレベルを反映している」という言葉が使われましたが、マスコミも同様だと思います。マスコミ内部から変える、意識改革は大前提ですが、単なるマスゴミ批判をするだけでは、何も生まれない。すべての人が当事者意識を持つ(中越地震でもそうですが、これはガ島通信を貫いているコンセプトでもあります)、それが最低限の土俵であるべきです。

木村剛氏のエントリー「ブログの興隆は規制を呼び込むのか?」。NHKの番組に関するR30さんのエントリー「NHK 日本の、これからは逆啓蒙電波だ」も似たような問題意識が根底にあるような気がします(文章のクオリティは比べるべくもありませんが…)。