ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

行政批判を考える

水俣病について、最高裁が国と県の責任を認めた」というニュースは画期的です。行政の不作為が問題視されることが多くなりましたが、正式に問われることは少ないからです。このような問題が生じたとき、新聞やテレビ的に言えば「行政は市民(弱者、納税者とか)のためにある」「公務員は税金で食べているんだから襟を正せ」などと書いておけば事足ります。例えば、今日の朝日新聞の社説にも「公務員には使命感がかけていたといわれても仕方ない」etc と書かれています。ただ、このような議論は長い間行われてきましたが、一向に改善される気配はありません。単純な行政批判や市民運動の盛り上がりだけでは、行政の不作為はなくならないということです。
地方紙であれば、身近な行政と言えば県や市町村ですが「使命感を持っている行政職員」というのは非常に少なく、あまり会ったことがありません(もちろん尊敬できる公務員の人もいます)。中央官庁の人に会うと、一見非常にアグレッシブで使命感があるように思えるものの、結局は省益や自分の利益、実績作りだけを考えているケースが多く、「使命感を持っているだけに危険(これはもう少し説明が必要かも知れませんね)」だったりします。私は行政職員に使命感を求めるほうが間違っていると思っています。どうせ、責任を取らないのだから、規制などの権限は出来る限り行政からはく奪すべきでしょう。責任を取らないのに、権限だけがあることが問題なのです。
ちなみに職員側にもそのような「使命感」を引き受ける覚悟はないと思います。
自治労などの公務員労組のHPを見てみれば分かります。「自分たちの給与は安い」とか「質の高いサービス(だと思っているところが既に「民間」感覚とかけ離れているのですが…)には安定した待遇(要するに金)が必要」など、自分たちが「弱者」であることばかりを強調し、さまざまな不作為について反省し、学んでいこうという姿勢は皆無に近い。さらに、公務員は、既存メディアや市民からの「公僕だから言うことを聞け」という声に、疲れ、被害者意識ばかりを膨らましている…。これでは、内部からの改革など望むべくもありません。
新聞的に言えば、行政批判は対立軸が明確で、比較的読者の支持も得すかったのですが、最近では変化しています。内部的には、取材力の低下で行政と喧嘩をしてまで行政批判の記事を書きたがる記者が減っています。「そんなに厳しく書いたら普通のネタが出なくなる」と心配する記者は大勢います。道警の裏金疑惑を追及した北海道新聞の記者も雑誌の座談会などで「何度も特オチ(自社にだけ記事が載っていない)した」と打ち明け、他社の記者が応援するどころか、批判記事の合間を縫って権力に擦り寄ったことを残念がっています。もちろん、お約束の行政や与党と対立することを嫌がる編集幹部もいます。そのくせ、今回の水俣や外務省&ムネオ事件のように白黒がつくと、とたんに勝ち馬に乗って行政バッシングを繰り広げる。そんな姿勢にも読者の目が厳しくなっています。
本気で「公務員改革」を行い、「行政の不作為をなくす」のであれば、単純な行政批判を繰り返すのではなく、新聞などでの議論の持っていき方を変えてみる必要があるのかもしれません。
とか、偉そうに書いてる自体、ダメなんでしょうね。冷静かつ論理的な行政批判を書
いてみたいものですが、力量がともなわないと、どうにも…。


あ、実は重大なことを書き忘れていました。何か問題が起きたとき、すぐに「行政の責任が問われます」と書くのはやめたほうがいいと思っていました。これこそ、無責任行政の焼け太りを助長しているだけ、口実作りになっているだけです。アホなカン違い記者よりも、カスミガセキの行政マンのほうが狡猾で頭もいいのです。