ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

新聞は何を「解決」しているのかを探り、ビジネスアイデアにつなげていく

東京大学のi.school人間中心イノベーション・ワークショップ「新聞の未来をつくる」ですが、早いもので7回目(全10回)となりました。前回から行っているシンセシス(統合)の続きと、機会領域の発見を行いました。新聞という存在が読者の何を解決しているのか、どのような得をもたらしているかを探り、そこからビジネスのアイデアを見つけていきます。

新聞は「マイナスイオン、ビタミン剤、プロテインのような存在」「儀式、ドレスコード」などの意見が出ていましたが、まず「新聞は安心を売っている」との共通項を見出したチームのディスカッションに加わりました。
参加者の古川さんが「#ischool2010 DAY-8 Synthesis & Business Plan」でも紹介していますが、このチームはまず新聞が安心(感)を提供していると考えていましたが、その安心とはどんな不安を解決しているか、と考えたことで議論が深まりました。
「圧倒的な情報フローの中にいる不安。ネットは終わりがなく、検索するとしても、どこまでしていいのか分からない」「手に取る感覚がないという不安。バーチャルだと手触りがない」「世の中、共通の話題がない不安」「日本人ではない不安」などです。
この場合、新聞は朝刊・夕刊と区切りがあり、パッケージとなっていることで時間的な区切りを、紙であることで手触りを提供、ニュース記事で共通の話題を提供しているということになります。組み合わせが安心を生んでおり、記事はひとつの要素に過ぎません。新たなビジネスを考える場合は、誰の、どのような不安を解消して、どのような安心を生むのかを、押さえなければなりません。
次に「マイナスイオン、ビタミン剤、プロテインのような存在」と話していたチーム。ある写真をきっかけに議論が進みました。それは、新聞を読んでいる女子高生の写真。通勤途中に中高年のサラリーマンのように新聞を折りたたんで読んでいるという女子高生の姿が「痛い(痛々しい)」「情報コスプレじゃないか」と学生。フィールド調査で、数日遅れの新聞を読んでいるという人が複数いたことから「要するに新しい情報でなくてもいい。最新の情報はネットを見るし、探すのは検索。新聞からは知を得られない。知を得るという行為に過ぎない」「新聞はビタミン剤のようにプチ教養で、知を得ることが出来るのは別のもの(ネットなど)に移っていった」と新聞関係者にとっては厳しい指摘が…
新聞は変わっていないが、メディア状況や社会の環境が変わり、知の獲得ツールとしては形骸化してしまった、ということなのでしょう。別の学生も「新聞は家にも研究室にもあるが、読まない。読んでいるところを見られるとちょっと恥ずかしい。就職活動のときは、就職活動だからと言い訳できる」「神社のお祈りのようなもので、どうせ聞かないようと思っているけれど、儀式だから仕方ない」。
このチームは、機会領域をサプリメント的に知識を得て教養を持った気分になると知を得る(現在の新聞にはない)の2つと考え、「行為に注目すると値段は高くなさそうだが、顧客がたくさんいそう。一方、知を得るは人は少ないが高いお金を出しそうだ」と話していました。
一方、ディスカッションが停滞するチームも。新聞は、教師や経営者のような間違ってはいけない立場の人にとって、新聞は「保険(新聞に書いてあったと責任を転嫁できる)」とのアイデアに。「その保険は何をカバーしてくれるのか。信頼だとすれば、自分たちも入りたいと思うはず」「立場が偉くなると入る保険なら、立場が偉くなるとすると新聞を取るようになるのか?」とチームでまとまりません。簡単に新しい機会領域が見つけ出せることが出来るなら、多くの企業が苦しむことはありません。あと2回、精一杯考えて、斬新なビジネスアイデアを出してもらいたいと思います。

【関連エントリー】