ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

ジャーナリストとメディア(媒体)は切り離して考えたい

楠さんのエントリー「マスコミから遠く離れて」を読んで、ある新聞記者のことを思い出しました。その記者は公務員の不祥事を追いかけていましたが、新聞社は官庁との軋轢を恐れて記事掲載に及び腰になっていました。嘆く記者に、私は「伝えたいことがあるなら、どんなことでもやるべきだ。ブログ、メール、チラシ、街頭演説、新聞だけがメディアではないのだから」と言ったのですが、結局どこにも書かれることなく終わったようでした。

ジャーナリズムについて、社会学者の鶴見俊輔氏は『元来人々の日々の記録であったジャーナリズムが、近代化の過程の中で新聞社や雑誌社などの職業的活動、特権と結びついた活動になった』と指摘しています。
いまや誰もがネットを使えば多くの人に情報を伝えることが出来る時代。先日の日経IT-PLUSのコラムにも「メディア」と「コンテンツ」を切り離して議論しようと書いたのですが、コンテンツを作るのは人なので、メディアとジャーナリストも切り離して考えることが出来るでしょう。

楠さんのエントリーでは、桐生悠々のことやジャーナリズムについて書きながら、タイトルがマスコミとなっていますが、ジャーナリズムは組織に紐づくものではなく個人が支えるものです(集合体という場合はあり得る)。
桐生悠々言論統制が厳しくなる中「書ける場所」を求めて媒体を移っていきました。ブログがあれば自分の言いたいことを書くことが出来ます。マスメディアは一般的に新聞、テレビ、雑誌、ラジオを指しますが、楠さんのブログより読者が少ない雑誌、新聞のコーナーはいくつもあるでしょう。桐生悠々よりずっと恵まれているのだから、自信を持ってジャーナリズムを追求してほしい。
媒体に囚われると私が思い出した新聞記者のようになってしまいます。どこにも問題が載らなければ誰にも知られることなく終わってしまう。それはジャーナリストではなく単なる会社員でしかありません。

最近、ジャーナリズムをサッカーに例えることが多いのですが、サッカーがボールを蹴ることであるなら、ジャーナリズムは書くこと、ボールを蹴る人がサッカー選手であれば書く人がジャーナリストとシンプルに考えればいい。以前であれば、組織に属する特権階級でなければプレーできなかったのが、ネットのおかげで「場」が増えて誰もがプレーできるようになったのですから。

日々ブログを書き、それ以上の数のブログを読みながら考えさせられるのは、送り手の立場が特権的な売り手市場のメディアと、ロングテールのブログとで、情報の出し手として何を心掛けるべきか、ということである。

という問題には、変わらず媒体に応じて書き分ければ良いだけでしょう。スタジアムで試合をするときは、ユニフォームを着て、監督の指示、チームと整合性を保つ必要がありますが、庭や公園でサッカーをやるときはラフな普段着でボールを蹴ることもあります。
それに紙であろうと、映像であろうと、ブログのように直接的に反応が見えにくいだけで双方向のコミュニケーションであることは間違いありません。

ジャーナリズムを担う人々の底辺が拡大しても、プロチームにアテンションが集まるようにマスメディアも編集の重要性も変わらない。あとはジャーナリズムも、プロスポーツのように、アテンションと選手(ジャーナリスト)の質が比例するような構造になっていくだけです。その中で、プレイヤーとして出来ることは腕を磨いておく、ということになるのではないでしょうか。