ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

「自分探しが止まらない」速水健朗

自分探しが止まらない (ソフトバンク新書)
若者の「自分探し」と聞くと、「もう、うんざり!」(この本の帯にはそう書いてある)とか「いつまでも甘えるな」といった批判か、「原因は社会にあるから若者は悪くない」とか「別にいいじゃない。自分らしく」といった擁護になりがちですが、「自分探しが止まらない」は、そのどちらも含みつつ、自分探し現象と若者の労働環境、時代背景を描き、自分探しを食い物にする「自分探しホイホイ」と著者が呼ぶビジネスも考察されているところがポイントです。
私は速水氏と同じ年に生まれ、就職超氷河期も体験(就職浪人した)し、沢木耕太郎の「深夜特急」にもはまった(ITmediaの達人の仕事術の「影響を受けた本」にも挙げているぐらい)ので、内容には非常にシンパシーを感じたのですが、この本に書かれている「猿岩石」や「あいのり」と言った自分探しのメディア現象にはまったく関心を持たず、同時代として体験することもありませんでした。
とはいえ、「自分はなぜ生まれて、生まれる意味があったのか」という実存的な悩みは中・高校と持ち続けていました。それゆえに哲学科にも進学したわけですが、実際に行ってみると実存的な悩みに満ち溢れ過ぎていて、大学院生やデモシカ公務員を目指すといったモラトリアムな人を身近で見てしまい「このままでは自分が社会人として生きていけないかもしれない」と思うようになりました。
ある意味、自分探しの行く末を見てしまったからなのかもしれないし、早めに心行くまで考えて「飽きた」のかもしれません。
それゆえに自分探しを「嗤う」つもりはまったくないのですが、いわゆる青年期を越えても、「本当の自分になれる」「自分の可能性は、まだ発見されていない」という考えを持つ人は正直よくわかりません。これは結局のところ「自己評価の高さ」なのでは?と思うわけです。「生きているだけで儲けもの」と考えている私にとっては、なぜそんなに自己評価が高くなるのか、ある意味うらやましくもあります。
思うような評価を得られないのは、努力不足か能力不足、もしくはその両方でしかなく、自己啓発セミナーや海外旅行などで状況を変えるだけでは乗り越えることなど出来ないでしょう。
不幸なのは、これを社会が原因と考えるのではなく、自分の責任だと思い込まされているところ(ここが非常に興味深い。つまり「そのままでいい」とありのままを受け入れてくれるというのは、ダメな部分を肯定しているだけでなく、本当は能力が高いけれどいまは何らかの理由で発揮できていないというところも含めて、受け入れるということ)。それが「自分探しホイホイ」繁盛の原因に繋がっていく。
自分探しはかまわないけれど、自己評価は冷静に、根拠のない「本当の自分の姿」と現状の落差を嘆くのではなく、コツコツ積み上げていくしかない(努力の方向も重要。自己評価が高いと自分の弱点をカバーするのではなく、落差の嘆きを埋めてくれる自己肯定を求めることに労力を使うことになる。そうなると食い物にされる)。それが出来ないなら、せめて「自分探しホイホイ」に捕まらぬようにしたいものです…