ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

「特殊指定見直し」に見る新聞業界の驕りと甘え

久しぶりに「特殊指定見直し」という大政翼賛会という長文のエントリーを書いて、いくつかのトラックバックを頂きました。新聞関係者で発言している新聞業界ってオモシロイ!? 今だけ委員長の独りごとさんや、とある新聞販売所の偏り日報さんなど、ブログもチェックしました。業界の苦しい立場にある危機感にうなずく部分もありますが、ニュース・ワーカーの美浦さんの「特殊指定」問題の本質を見極めなければならないの中にある一文に違和感を覚えました(美浦さんの一連のエントリーには同意することも多い)。

経済効率最優先でいくと何が起きるのか。わたしたちは、その一つの答えを昨年の尼崎市JR西日本の電車脱線事故や、相次ぐ航空業界の安全トラブルに見ているはずだ。また、社会経済上のこととして、格差の拡大という問題にも直面している。特殊指定見直しの問題は、格差社会の問題と同根ではないのか。シンポでは、わたしはそういう話をした。

というのはいかがなものでしょうか。
業界の経営努力の問題と格差社会を結びつけるのは、申し訳ないが筋違いというものでしょう。この失われた10年民間企業は努力してきたはずです。人材とコストの削減(新卒採用を抑えたというのも立派なリストラ。それで苦労している世代なので…)が結果として「格差社会」なるものに結びついたのかもしれませんが、新聞が今苦境なのは、100年前から続くビジネスモデルを放置し、労使ともに何の経営的な努力もせず、漫然と過ごしてきた結果に過ぎません。企業にリストラを求め続けて格差社会を生んだマスメディアの責任があるというならまだしも、新聞の特殊指定の問題がどう格差社会と絡むのか、前後を読んでもどうしても理解できません。

例えば、新聞社を自動車メーカーと置き換えてみるとどうでしょう。特殊指定見直し反対は、「価格の枠が外れれば、トヨタしかなくなって、多様な車に乗れなくなるから定価販売が必要」だなどと言っているのと変わらないわけです。それはあり得ない。自動車メーカーは世界の競合と戦いながら売り上げを伸ばし、下位メーカーは独自色を出したり、海外メーカーと提携したりして、何とか生き残る努力をしている(ホンダの社員の方にあるところで話を聞く機会があったのですが「車の開発はバクチ。トヨタのように資本力があるならいいけどホンダは無理。一台でも外すとと終わりだから、開発する車すべてが売れるようにと祈りながら開発しています」とおっしゃっていて、反省したことがあります。ホンダらしいこだわったものづくりも残しながら売り上げも、という両立は、ジャーナリズムと経営の両立とどこが違うのでしょうか?)。

それに自動車は、ABSやエアバックなどの安全装備、ハイブリッドなど環境にも配慮して開発する必要もあります。「公共性がない」わけではないでしょう。どうも新聞関係者の「大本営発表」を見ていると、何か新聞を特殊なものと考えすぎなのではないかと思ってしまいます。

また、新聞やテレビは、JRや航空会社の事故やバッシングしながら、価格競争は消費者のため、といった論調を繰り広げているはず。JRを再度国鉄になどという議論は見ませんが? まあ、共通点があるとすれば、あれだけ事故やミスがあり、経営的にも厳しい状況にもかかわらず、賃金下げを拒否し続けるJALの労組と変わらないということかもしれませんが… 

ともかく、再販制度の廃止ならともかく、特殊指定見直しで政治家を巻き込んで「大本営発表」をするのは失うものがあまりに大きすぎます。今のような特殊指定報道は新聞の自殺以外何者でもありません。とは言っても、特殊指定問題に積極的に発言しているのは販売や営業の方がほとんど。私が少し書き込んだSNSやメールでの反応も販売、営業の方がほとんどでした。特殊指定の大政翼賛会報道に、表立って異議を唱える自称・ジャーナリストがほとんどいないということは、新聞は既に死んでいるのでしょう。