ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

激動の2005年を振り返る

2005年はいろいろなことがありました。ライブドア・フジテレビ、楽天・TBSとネットメディアとテレビ局が激突、「資本の論理」と「放送と通信の融合」が話題になりました。2度の大きな列車事故、飛行機会社の相次ぐトラブル、耐震偽造アスベスト問題、子供たちが被害者となった犯罪… 振り返ってみると明るい話題が少なかったように思えます。個人的には、転職、転居、本の出版など、本当に激動の年となりましたが、いろいろな人との出会いがあり、刺激を受け、勉強することが多く、「新しい出発点」の年でした。

以下、思いつくままに今年の出来事とその感想を書いておきたいと思います。

  • 衆議院選挙「改革を止めるな。」で自民党圧勝

抵抗勢力、刺客、ホリエモンまで登場しての大騒動の末、自民党が圧勝しました。「古い自民党をぶっ壊す」「殺されてもいい」、大方の予想に反して衆議院を解散した小泉首相は赤いカーテンをバックに国民に向かって会見を行い、直接自身の思いを訴えました。世耕弘成参議院議員率いるコミ戦の活動が注目され(相変わらず民主党の広報戦略は成果が上がっていないように思われる)、メディアの敗北が一部で指摘されましたが、特にテレビ・ワイドショーは見事に転がされた感があります。また、政局報道しかできない現在のマスメディアは、政策へとシフトしている政治の世界を捉え切れていません。例えば、与謝野と竹中の財政再建をめぐる路線対立も、「党内の影響力が」「ポスト小泉を狙った動き」などの政局報道に終始し、財政再建をどのようなスキームで進めていくか(与謝野と竹中の話は、そういう話のはずだ)の具体的な検証はなされないままでした。

ところで、「新しい自民党」なるものが何をもたらすのか。単純に言えば、これまでの右肩上がり発想を捨て、護送船団が崩れ、自己責任の時代が(もっと)来るということでしょう(格差社会・下流社会とも内容がかぶる)。調和と国土の平均的発展という考えに基づき予算配分していた時代が戻ることは、よほどのことがないかぎりありえないでしょう。そして、そういう時代を国民自らが選んだと言うことを忘れてはなりません。

鈴木宗男の逮捕(佐藤優著「国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて」は必読)、後藤田正晴氏が亡くなったのも、時代の変化を象徴する出来事だったのでしょうね。

なお、衆議院選挙の報道については、郵政解散直後の新聞の社説をまとめた私のエントリー「郵政解散各紙はどう伝えたか」を読み返すと興味深いものがあります。

  • 反省しないマスコミ。繰り返された事件・事故報道でのお祭り騒ぎ

JR西日本の尼崎での脱線事故の記者会見で声を荒げていた記者がバッシングを受けると言うことがありました。当時連載させてもらっていた日経BP.JPで「事故・事件報道で今一度考えたいメディアの責任と体質」()()()とのタイトルで、事故・事件報道が抱える問題点を書いたのですが、改善される気配はありません。羽越線で起きた特急「いなほ」の脱線転覆事故でも、毎日新聞は「特急転覆 安全管理で浮ついてないか」と題した社説で

突風とは言いながら、風の息づかいを感じていれば、事前に気配があったはずだ

と非論理的な言説を展開する始末です。風の息づかいを感じる?時速100キロ近くで走っている、運転手にニュータイプにでもなれと言うのでしょうか。浮ついているのは嬉々としてJRの揚げ足を取るマスコミです。

日経BPの連載でも少し触れたのですが、奈良の女児殺害事件でも問題視されたメディアスクラムや「捜査機関化」が広島、京都でも問題となりました。H-Yamaguchi.netが「これはいったい報道なのか?」で指摘されていることですが、私もマスコミの「捜査機関」化は大変問題だと感じていました。例えば山口さんが問題とされている容疑者への直接取材ですが、報道側が推定無罪の考えにのっとり、もしかしたら無罪かもしれない容疑者の言い分を聞いておくために直接取材を行うのなら意義あることだと思います。つまり捜査のチェックですが、現実的には「やはり犯人だった」「決定的証拠を発見」などと報道しているところがほとんどの今、このような取材手法は支持されないでしょう。

このような現状では、自分が誤認逮捕されれば、警察からは絞られ、マスコミからはバッシングされると思うと、絶望的な気持ちになってしまいます。それに、例え犯人ではなく被害者であっても、報道の渦の中に投げ込まれるのです(桶川殺人のときのことを思い返してもらいたい)。犯罪被害者の発表(実名か匿名)を警察が判断する「犯罪被害者等基本計画」が実行に移されようとしていますが、それに対する、日本新聞協会と民放連が出した『恣意的に運用されることがないよう国民とともに厳しく監視したい』とのコメントが寒々しく感じられます。嬉々として犯人探しを行い、被害者のプライバシーを傷つけてきたのは誰だったのか? いったいこれまで、誰が国民とともに監視してきたのか? 自浄作用のないマスコミが「正義」や「権利」を主張しても、寒々しく響くだけです。ましてや「国民とともに」などという言葉を、恥ずかしげもなく平気で使う…。多くの国民は、すでにマスコミとともにあることに期待はしていないのではないでしょうか。

  • 格差社会・下流社会

希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」「下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)」がベストセラーになり、下流社会や格差社会といった言葉が世間をにぎわせました。マスコミ(特に新聞)でこの言葉が取り上げられる際は、どこか「問題がある」といった批判的なスタンスのことが多いのですが、個人的にはこれは仕方がない時代の流れなのだと思うようにしています(そうでも思わないとやってられない)。人口が減少し、高齢化社会が進み、国の財政は破綻状態、にもかかわらず「増税」のような多くの人が痛みを引き受けることは、いくら小泉が主張してもドラスティックには行えないのが現状です。皆がこのままではまずいと思いながら、自分の責任は取りたくない。でも、いつかは崩壊する。

これまでは、高校や大学受験を勝ち残れば会社に入れば安泰だったわけですが、それが単純に社会に出ても競争が続く時代になったというだけなのでしょう。むろん、私としてもそんな時代は「勘弁してもらいたい」わけなのですが、嘆いても格差社会・下流社会というのが来る(現実には既に来ているのだろう)のであれば、準備するしかありません。これまでは、いい時代だったのですね。と遠い目をしながら…

  • 新聞の未来

新聞社の経営が厳しくなってきています。給与や待遇などの面でも格差が開きつつあり、湯川鶴章さんの著書「ネットは新聞を殺すのか-変貌するマスメディア」と今年に入って「新聞がなくなる日」も出版されました。著者の歌川氏は「紙のモデルからネットモデルへ」「2030年のビジネスモデルは=紙新聞のなくなる日型」と書き、秋ごろから新聞社にネットブームが巻き起こりつつあるようです。しかし、私がネット企業に身を置くようになって考えるのは、新聞で起きている100年続いたビジネスモデルの崩壊とネットビジネスは、実はリンクしていないのではないかということです。

ネットが影響力を増しているとはいえ、まだまだ地方では「ネット社会」が身近になっているという実感はありません。特に自宅へのネット回線の展開はこれからです。にもかかわらず、地方紙も含めて新聞の広告が減っているのはなぜか、そこを分析する必要があるでしょう。「ネットのせいだ」というのは簡単です。中にいると良さが見えないこともあります。ネットに進出する前に、改めて紙の魅力を問い直し、商品としての新聞を見つめなおすことから始めてみてもいいのではないでしょうか。

格差社会・下流社会でも書いたことですが、これまでいい時代だったのです。正直なところ新聞業界は経営努力をほとんどしていませんでした。改善するべきところは、たくさんあります。中の人の危機感と努力次第で、まだまだチャンスはいくらでもあります。私が新聞を辞めるときに、新聞の現状が変化するのに10年はかかると思っていましたが、もう少し早まりそうです。また仲間たちと一緒に「新しい新聞作り」にチャレンジできる日は、そう遠くないのではないかと思い始めています。

  • さまざまな人との出会い

何よりもこれに尽きます。まず、新聞業界の先輩湯川鶴章さん高田昌幸さんと一緒に「ブログ・ジャーナリズム―300万人のメディア」を書くことができたのは幸せな体験でした。2部に登場していただいた徳力さんタカヒロさんR30さん、ありがとうございました。編集者の方ご苦労様でした。そして、いろいろな会合で発言できるチャンスを与えていただいた、Fireside Chatsさんにも感謝。

ブログを通じて昨年から「交流」させてもらっていた、あざらしサラダさん小島愛一郎さんdawnさん大西宏さんヤースさんらとリアルでお会いできました。これからも、楽しく飲み会が続くといいですね。 

こうやって書き始めると、本当に今年はいろいろな業界の方とお会いして、刺激を受けてきたのだなと実感します。そして、そんな私を理解し、支えてくれた家族や友人、仲間に心から「ありがとう」を言いたいと思います。お世話になった人はまだまだ書ききれませんが、お許しください。

勢いだけの、未熟な私ですがこれからもどうぞよろしくお願いいたします。そして2006年も、いい出会いがあると信じています。