ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

「嗤う日本の『ナショナリズム』」北田暁大


「嗤う日本の『ナショナリズム』」は、2ちゃんねる、「電車男」、スポーツイベントなどに見るアイロニー(嗤い)と感動の共存出現を70年代の連合赤軍の「総括」にさかのぼり、紐解いています。丹念な作業で、非常に興味深く読んだのですが、ふと「これは時代を切り取ったり、ネタ文化を作り上げたりしてきた人たち」の物語であり、帯にある『国家、純愛、電車男 …かれらはなぜハマるのか?』のかれら=ハマっている人たちのことを書けていないのではないか(私が論理的文章を読む解く力が弱いのも原因だろうが…)、という疑問が頭をよぎりました。

2ちゃんねる管理人西村博之氏は『2ちゃんは真偽が分からない世界。読む解くにはリテラシーが必要』と繰り返していますが、2ちゃんがネタワールドであることを理解している人と、理解していない人(そんなことはどうでもいい人、理解しようとしない人)の間には決定的な差異があります。アイロニーの構造を積み重ねていった(作ったり、変化させたり)人たちと、ただ、それを時代の空気として受け入れ、消費していった人たち…

北田氏は90年代から2000年代の人間内面の形態を『人間になりたいゾンビ』であるとしていますが、ゾンビであることを自覚(なんとなくでもかまわない)している場合は、人間になりたいかもしれませんが、無自覚であれば「別にゾンビでもいい」ということになってしまいメタ化されてしまいます。ここにネタ(メタ)化された社会を切り取ることの難しさがあるのではないでしょうか。

終章ースノッブの帝国・総括と補遺において、北田氏は『いや、本当に処方箋を必要としているのは、じつは、医師(のつもりでいる人びと)のほうなのかもしれない…。歴史なき時代において、ということは処方箋=思想が敗北することを宿命づけられた時代において、それでもなお絶望せずに思想を語り続けること。この本の記述が、そうした蛮勇を動機付ける契機となってくれることを願っている』(一部略)と書いています。この本は、ネタ化社会の前で途方にくれる(立ち尽くす? 悲観する? うまい表現が見つかりませんでした)北田氏の自分自身へのエールなのかも知れません。


「『電車男』は誰なのか―“ネタ化”するコミュニケーション」もオススメです。