ガ島通信

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そして先生は「神」になった

寝屋川での事件について、28日の自社の社会面にあった記事(ネットで探したが見つからなかったので、一部抜粋します)。
『「普通の人なら一歩も歩けない。信じられない」。大阪府寝屋川市立中央小で卒業生の少年に刺殺された教諭の鴨崎満明さん。包丁は肺を貫通して心臓にまで達した。瀕死の状態で約20メートルも歩き、学校を守った鴨崎さんに捜査員らから感嘆の声が上がっている。〜略〜マニュアル通りに質問し、不審者と判断。外に連れ出そうとしたが、背後から刺された。

刃渡り21・5センチの包丁は柄の部分まで刺さった。鴨崎さんはグラウンドに出て養護学級の教諭に手を振り、異常を知らせた。さらに隣の技能職員室に行き、倒れた。
歩いた距離は約20メートルに上ったが、グラウンドでは血は見つからなかった。背中を手で押さえながら必死で歩いたらしい。
「子供を、学校を守ろうという思いが強かったのだろう」と捜査幹部。熱血先生の最後の言葉は「不法侵入や」。「助けてくれ」ではなかった。
司法解剖の結果、死因は失血死でほぼ即死とされた。ベテラン捜査員は「あんな傷で歩けたのは神がかり的としか言いようがない」と絶句する。
20日に開かれた追悼集会。鴨崎さんの義父は「よく職務を全うしてくれた。誇りに思います」と話した。鴨崎さんは天国から教え子の成長を見守っている。』

共同か時事か分かりませんが、それにしてもひどい原稿だと私は思いました。私は友人を交通事故で亡くしたことがあります。悲しみに沈む家族、亡くなった友人は20代で人生これからでした。人間死んだら終わりです。英雄に祭り上げても鴨崎さんが帰ってくることはないのです。この原稿からは素朴な「死」への恐怖はまったくありません。戦死者が皆「天皇陛下万歳」と言いながら名誉ある死を選んだかのように書き(確かに何割かはそう言ったかもしれないが…)、国民を戦争に巻き込んでいったあの時代の反省はまったくありません。

刺されて「助けて」ではいけないのですか? まるで、「痛い」「助けて」というのを否定するような書き方です。さらに、巧妙なことに義父の話を取り上げ、家族が英雄を否定することも出来なくなっています。本当に鴨崎さんが学校を守ろうとしたのか、生きるための執着による20メートルだったのか、今となって知ることは出来ません。本人が永遠に語ることが出来ない思いを、勝手に解釈してよいのでしょうか? 「死」は英雄になることで埋め合わせることはできません。鴨崎さんは生きることを突然奪われた。これからあるであろう楽しみや苦しみもすべて。その悔しさはこの原稿からはまったく伝わってきません。美辞麗句で塗り固められたこの記事をいったい記者はどんな気持ちで書いたのか? デスクはどんな気持ちで通したのか? 怒りを通り越して情けなさを感じました。どんなに優秀な記者でも人間の気持ちを忘れたら終わりではないでしょうか?

追記(3月2日) 皆さんコメントありがとうございます。鴨崎さんが子供を守ったのは事実でそれは尊い犠牲です(行為を否定するつもりは一切ありません)。しかし、人が死ぬということは、児童であろうと教諭であろうと同じです。子供たちを守るために教師を英雄に仕立て上げることは、この問題の解決や問題点とはあまり関係ない気がするのです。この記事がもたらすものは、今後同じような事件が起きたら死ななかった教師は非難される、ということです。そもそも教師は「児童を守ること」が第一義なのでしょうか? 教師は勉強を教える存在であるはずです。学校の安全は教師のみによって守られるべきなのか、教師は命を投げ打ってまで子供を守ることが「職務」なのか? 私はそこまで教師に求めるのは酷ではないかと思うのです。感情を揺さぶるような事件であればあるほど、冷静な議論を呼びかけるような原稿を書くべきなのではないかと思うのです。
「家族を捨てて逃げるのか?」とコメント欄にありましたが、私はもしかしたら逃げてしまうかもしれません。本当に恐怖に直面したときに人はどんな行動をするのか分からない。人間の弱さを否定し、格好いい、威勢のいい言葉を並べ立てることは、私は罪深いことだと考えています。確かに戦争の話は飛躍があるのかもしれませんが、今後の教師の行動を著しく狭めるような原稿の構造は「軍神」を作り出した原稿の構造と同じであると考えています(死を肯定することは、戦友を見捨てて生きて帰るのは恥だということになっていく可能性がある)。そこに怖さとなんとも言いようのない違和感を感じるのです。