ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

マスコミ不信、政治家そして朝日(仮称)

dawnさんからのお題。毎日新聞の記者の目「実はくせもの公平・公正」について、どう思うかという話。私的に要約すれば、公平・公正という正面を切ってメディアが反論しにくい理由で政治家はメディア規制を強めているのではないか、という危惧をNHK問題に見る、というところでしょうか(間違ってたらすいません。あくまで私的)。

まず、この記者の視点としてかけているのは、読者や視聴者のメディア不信も政治家の「公平・公正」発言の後ろ盾になっているという点。さらに、テレビ朝日椿発言にしても(確か産経新聞が書いたと記憶している)、今回のNHKVS朝日にしてもメディア内で足の引っ張り合いが政治家の介入のきっかけになっているという点でしょう。だから、大石泰彦東洋大教授の「参考人招致を朝日新聞もNHKも拒むべきだ」という言葉が腑に落ちない。「お前が招き入れておいて、拒否って何事だ?」と思う人も多いのではないでしょうか?その大きなメディア不信の流れに一言も触れず、政治家が云々といのは自分の責任を忘れています。

それに、dawnさんがおっしゃられるように、国民はメディアに「権力の監視をしてくれ」とは言ったことがないというのもその通り。メディアはキレイゴトでは「俺たちの仕事は権力の監視だ」と言い、「第4の権力だ」などとふんぞり返っている。しかし、実際は癒着している。で、突っ込まれると突然「権力を監視するわれわれがいなくなると大変なことになりますよ。それでもいいんですか?」などと開き直ったりする。もっと謙虚にならなければ政治の介入をさらに招き、政府の規制(法律で規制するなど)も厳しくなるでしょうが、今の現状はメディアにとっては有利なありがたい状況なので状況を変えたくない。護送船団時代の銀行のようなもので、非常に内部からの改革は難しいでしょう。

ただ、dawnさんが国会の現状について少し触れていましたが、メディアがこの体たらくなのも国民が選んだ現状だといえます。メディアは確かに強固なギルド社会を形成しているように見えます。テレビ、ラジオを系列化し、広告業界、行政、政治と癒着している。しかし、日本はとりあえず民主主義かつ資本主義国家であるはずです。公共放送であるNHKを除けば、国民が不買などの行動を起こしさえすれば変革せざるを得ないはず、です。新潟中越マスゴミ批判のときにも「センセーショナルな映像を求める視聴者も悪い」という意見がありましたが、それもまた一理あるでしょう。私はマスコミ内部人間ですから「結局国民が悪いんでしょ」などと開き直ることはできません。それを言ったら終わってしまいます。ただ、内側と外側の両方から少しずつ変えていかなければならないということは分かってもらいたいのです。文句を言っているだけでは変わりません。

メディアの罪。それは実は自らが唱える客観報道、つまり「公平・公正」にあるのではないかと思います。記者が記事を書く、カメラマンがシャッターを押す。その切り口、アングルには必ず主観が介在します。立場をある程度明確にしなければ議論はできません。客観にとらわれるあまり、メディアの問題点を書く場合も「同じ業界同士は批判しあわないのだ」(私のブログで問題が起きたときも、したり顔でこういった先輩記者がいたな〜)とばかげたことを言ってみたり、逆に変に感情的になってしまったりする。きちんと立場を明らかにして議論すべきです。公平・公正を捨てよ!と言いたい。もちろん難しいことは分かっています。

それに、メディアは常に正しいことを伝えるとは限らない。間違えることだってあります。それを認められないから、問題がヤヤコシクなる。客観の看板を下ろし、間違いがあることを認める。そして読者にはリテラシーを持ってもらう。リテラシー、つまり判断をゆだねるということは読者にとっても大変です。勉強しなければいけない。読者は、とりあえず「反日朝日が!」「間違ってるじゃないか!」と大騒ぎしていればいいわけではなくなる。ネット界に身を置いていると、読者は真に朝日の改革や廃刊を望んでいるのか?(例えば朝日。別に他のメディアでもいい)と思うことがしばしばあるのです。つまり「文句言えればいいんだよ」と。マスゴミ批判祭りをただ楽しんでいる人もいるのではないかと… 

権利を主張するには面倒な義務も引き受けねばならない。メディアに関してはそういう側面からの議論があまり見られない気がします。

追記 書いているうちにdawnさんのエントリーとはずいぶん違った内容になってしまいました。論点が散漫になってしまったのでタイトルは仮称。いいのが思いついたら変更します。