ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

日本は哀れな国…

日本国籍がないことを理由に東京都が管理職選考の受験を拒否したニュース。「哀れな国」「日本に来るなと言いたい」。記者会見で叫ぶ女性の姿をテレビで見て、正直言って「じゃあ、お前が日本から出て行けよ」という気持ちが心の中に一瞬よぎったことは否定できません。

戦争時の日本と大陸・朝鮮半島との関係、過去から現在において在日の方々が味わった苦悩や差別、そういうものは一応頭に入っていたつもりでした。あのテレビ画面を見るまでは「不当な判決だ」と思っていましたが… 長い裁判、周囲の目、高裁での判断が覆っての敗訴、感情的な発言になってしまうのは理解できます。しかし、日本全体を否定すれば、東京都以外で日本国籍を有さない人に公務員や管理職への道を開こうとしている他の自治体トップや幹部の努力はどうなるのでしょうか? 女性を支持してきた日本人もいたでしょう。それも認められない、哀れなものなのでしょうか… 

私は昨日から「差別主義者」になりました。


追記 にせ藤沢人さんから「イライラしている」と指摘されてしまった。そうです。確かに感情的でした。 結局のところ、ああいう態度が差別というものを助長させるのではなかと思うのです。いくら心で思っていても、言ってはいけない言葉がある。影響力の大きさを考えればなおさらです。「マイナスになると、なんで分からないのだ!」と。なんだか勝手にシンパシーを感じていた自分も裏切られたような、シンパシーを感じてやっていたのに的な自分に内在する特権意識だとか、そんな悲しさや悔しさも入り混じって、イライラしてしまいました。大人気ないですね。すいません。 私は、他の国が外国人の公務員採用を認めていても、認めていなくても(毎日新聞のクローズアップ2005に一覧あり。韓国や中国などアジア地域の国を紹介していないのはどうかと思いますが…)、日本が独自の判断をすればいいと思っていました。日本は外国人でも公務員になれる国、そういうのもアリかと… しかしあの会見の後は… 理解しあう、溝を埋める、冷静にならなければ、分かってはいるのですが、すべてが虚しい言葉のように思えるのです。


追記(1月28日) 少し冷静になってきました。私はこのブログで、自身の喜怒哀楽を率直に書いてきたつもりです。記者は聖人でもなんでもありません。キレイゴトで塗り固められたマスコミ人のふりは、せめてブログ上だけではやるまいと… 大げさに言うなら「記者の人間宣言」でしょうか。またまた高田さん(最近かなりのマイブーム)ネタ。おっしゃることはごもっともだし、高田さんなら聞くのでしょう。しかし、今回の訴訟は在日という、部落問題、天皇と並ぶ新聞のタブーに直結しています。「あなたの発言に正直腹が立ったのですが、どこに真意があるのですか?」「これまで支援してきた日本人も否定しているのですか?」(質問は一例です)などと聞くことができる記者がどれほどいるのでしょうか。普通のネタであれば「女性の発言が波紋を広げている」などの追い記事も出るかもしれませんが、難しいのではないですか?(産経は書けるかもしれませんが) 

私がこのエントリーを書くときも相当躊躇しました。アップした後に「この内容は危ないよ」と知り合いの記者から忠告もありました。「差別主義者」という言葉を使ったのは、これで私も差別主義者のレッテルを張られるのだろうなという覚悟ような意味合いでした(変に気負いすぎていたことの証明でもある)。決して差別を肯定したり、差別主義者であることを開き直っているのではありません。「差別されてきた人の気持ちが分からないのか」と言われると黙るしかない。しかしその心の中では、違和感や恐怖が入り混じり、新たな差別が生産されていく可能性があることも忘れてはならないと思うのです。

「危ない」「問題になりそう」だから書かない。メディアの自己規制。それは、政治家の文句が怖いNHK幹部と同じではないのでしょうか。


追記(1月28日夕) 皆さんコメントありがとうございます。taketakeさんのコメントに一言。なぜ頭にくるのか。それは私が「日本人」だからです。哀れな国に住む日本人だからです。確かに私は頭に血が上って冷静ではないかもしれませんが、あの会見を聞いて、「やはり何十年も差別で苦しんできたから大変だ」などと理解を示すことは私にはできません(理解していても許せない言葉があるのではないですか?)。ただ、そこから積み上げるべきものはあると思うのです。そのまま言い放って、「差別主義者」だと開き直るつもりはありません。高田さんの言うように、疑問をぶつけて、お互いの本当の気持ち、言いたいことを言い合うべきです。しかし、口を開けば「差別」のレッテルを張られるかもしれない。じゃあ、黙って理解するフリをする、心の底では軽蔑しながら差別をいけないことだと言う、そういう人が多いのではないでしょうか? それでは壁や溝を本当に埋めることは出来ません。その悪循環に陥っている気がするのです。だから私は思い切って自分の思うことを書いてみたのです… それが醜い姿であろうとも、記者の資質を問われることになろうとも。キレイゴトでは本質に切り込むことはできません。


追記(1月30日) 皆さんご意見ありがとうございます。taketakeさんの長いコメントも読みました。それに続く議論も興味深く見守っています。いくつか付け加えます。まず「理解できない」という感情も含めて、読者の皆さんが判断されることです。私は世の中には理解できないこともあると思っています。理解を深めることはできても、究極的に人と人は完全に理解しあうことはできないというのが私のスタンスです。「いろんな考えの人がいるな〜、けど私とは違うな」と思う(受け入れる)のじゃあダメなのでしょうか? 「そういうのは認められない」というのは感情としてあっても、強要するようなものではないと思います。taketakeさんのコメントを読んでいると困惑してしまいます。まるで私がtaketakeさんの意にそぐわない文を書いて怒られているように感じるのです。

このブログでは今のところコメントを削除せず、私への批判も議論が横道にそれることも含めて「ガ島通信」の面白さであると考えています。ただし、コメントを削除することもありえます。それはなぜか。このブログは私が運営しているからです。2ちゃんとの比較がありましたが、2ちゃんも不特定多数が読んでいる媒体です。2ちゃんとブログの最も違う点は、ブログは匿名であれ実名であれ、そのブログを運営している個人のフィールドであるということです。私は私の考えを書いている。ですから、コメントにはガ島への批判も入ってくる。批判は明日への糧で重要ですが、やはり批判されると大なり小なり傷つきます。ブログ開設者は、そういうある種の責任(のようなもの)も引き受けているわけです。それがブログの面白いところでもあり、怖いところでもあります。それに、私は支持を得るためにブログを書いているのではありません。もちろん、コメントやTBでの議論の広がりは楽しみですし、支持してくれる意見が多ければ勇気付けられます。ただ、支持を得ることや失うことの恐ろしさを考えていると書けなってしまう。それがもっとも恐ろしいことです。


*参考 TBSラジオの「バトルトーク」での投票。地方自治体の管理職に外国籍の職員を登用することに賛成?反対?

判決文が最高裁HPにありますのでご覧ください。