ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

取材の現場から 7

記者による中越地震リポート。趣旨はこちら(一度はお読みください)。また、現地の状況は絶えず変化しています。筆者の考えが変化したり、表現にブレが生じる可能性が高いため、継続して読んで判断してもらえると助かります。

◆C記者・代表取材について◆
代表取材という手法があり、国内外を問わず広く行われている。新潟中越地震関連のニュースで言えば、天皇皇后両陛下が被災地を「お見舞い」された取材も代表取材となった。
避難所の中は狭く、またカメラを向けられることで精神的に被災者を刺激しかねない、という理由で代表取材となった。メディアに詳しい方なら、新聞に載った陛下のせりふが一言一句全く同じだったことに気付かれたかもしれない。(記者がいかに誠実にメモを取っても、せりふは一言一句同じにはならないのが常である。人間の筆記能力は聞き書きできるほど優秀ではない)
代表取材とした趣旨について、私自身も全く同感だし、新潟に来る前、2ちゃんねるを含めた意見で最も多いのが、「マスコミが無差別にカメラを向けて荒らすから、取材を禁止するか代表取材で規制しろ」という意見であることも知っていた。そもそも私自身、テレビ系列各社が会見で同時に5−6台もテレビカメラを回す光景を見ていて(テレビカメラは異常に場所を取る)、なんとかならないかと思う活字記者の一人でもある。
一方で、代表取材に問題もある。もともとは多様な視点の記者がいるわけで、彼らが独自の切り口で取材したいと思ったときに、一次情報の出口をしぼってしまう。それは一種の「記者クラブ待望論」になってしまう。しかも、記者というものは代表取材となれば、各社に気兼ねして最大公約数的な取材を行うのが常だ。ごく一般的に言えば、朝日新聞でも産経新聞でも使える無味乾燥な原稿を書くということになる。そして肉声が一種類しかないのだから、そこから新たな取材を展開することができない。
また、もう一つの問題は、フリージャーナリストは規制できないことである。 (日本には欧州大陸のような記者組合による認証制度がないので、記者と一般市民を法的に区分けする術がない)。さらに、代表取材による規制を持ち出すのが、常に権力側、当局側であるということも確かだ。マスコミは視聴率や読者の要求に応える「鏡」でしかない以上、無垢な存在ではあり得ない。しかし、一般被災者はともかく、当局側から「邪魔になるから、一般人は入れるが、報道陣の取材お断り」みたいな理由付けになってくると、何のための媒体なのかということになる。
取材する側も取材される側も、そして読者・視聴者の三者が「公人と私人」の立場をきちんと峻別していかないと、それを口実に当局からの情報公開がどんどん減っていくことになりかねないのではないか。(東京、大阪のマスコミは戦闘的だとしばしば嫌悪されるが、一方で両都市での当局から市民への情報公開が、全国で最も進んでいるのも確かである)。
民主主義社会だから、選挙された指導者に率いられた当局が言っていることは常に妥当である、ということならそれでよい。しかし、そういうことではないから、マスメディアなんてものが、現在まで存続しているのではないだろうか。ネット掲示板もブログもあると言われるかもしれないがが、議論のソースが圧倒的にマスメディア依存である以上、現状で代替にはなり得ないだろう。本来は新聞協会や民放連などが、そういう交渉窓口になればよいのだが。どうなのだろうか… (了)