ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

声高に叫ぶのは

今回の中越地震では、2ちゃんねるなどの掲示板やブログで「マスゴミ批判祭り」が繰り広げられました。何度も書いてきたように、マスコミの行動に反省が必要なことは言うまでもありませんが、感情的で声高な批判は当事者ではないケースが多いのではないでしょうか(取材が長期化すれば当事者からも意見は出ますが、ここでは初期段階での批判のケース)。さも当事者の味方のような顔をして(当事者の意見を代弁しているような顔をして)、ある意味楽しんでいる人たちが多いのではないかと考えています。

これは、私の経験に基づいています。どこかのブログで「ガン首(顔写真)」について書いていましたが、私は司法・警察担当を3年やっていたのでよく顔写真を取りに行かされました(最近はほとんどないようですが…)。
顔写真を持っている人は、亡くなった人の家族や友人のため、「不幸でメシを食べるのか」と怒られることが大半です。塩をまかれたりもします。これは、メールや電話などではなく面と向かって言われるので精神的にかなりこたえますが、怒られて当然の話なのでさらに自己嫌悪に陥ってしまいます。ただ、亡くなった人に近い家族であるほど、物静かで優しい気持ちになっていて、断るにしても「申し訳ありませんが、提供できません」と丁重なケースがほとんどです。海外の事故などで現地の情報が入らない場合は家族から逆取材を受けて通信社や現地の大使館に問い合わせたり、故人の思い出などをアルバムを見ながら語り合うケースもあり、一概に「被害者が怒っている」とは限りません。「取材の現場から5」でB記者も書いているように、直接当って見なければ当事者がどんな気持ちかは分からないものです。

ただ、親戚や近所の人が増えてくるとそうは行きません。近い家族の人と玄関先で話し込んでいると、「お前は人間の気持ちが分からないのか」「クズ!マスコミなんか帰れ!」と煽り立てる人が必ず出てきます。言葉は汚く、時には暴力的な態度もありますが、どこか楽しんでいるような雰囲気も漂わせています。私は、家を追い出された後に追いかけてきた家族の方に「さっきはすいませんでした」と謝られた経験すらあります(トラブルのきっかけは私が作ったわけで、本当に申し訳ない気持ちでした)。当事者から離れるほど声高になる、いわば批判のドーナツ化現象と言え、今回の中越地震でおきたマスゴミ批判はほぼこれと同じ構造だと私は考えています。

だからといって記者が被災者や被害家族に直撃してもいいかというとそうではありません。私が司法・警察担当だった当時は「ガン首を取ってくれば何でもいい」というムードが蔓延しており、うまいことを言って近所や友達から顔写真を提供してもらう記者もいました。ただ、あまりにも顔写真を撮りに行くのが嫌になった私は、家族に当って断られたら取材をストップすると自分で決めて、断られた後は上司にはさも引き続き努力しているようなフリの電話を入れていました。

事故の取材などで、被害者や目撃者からまず最初にとにかく名前と住所を聞こうとする若い全国紙の記者を叱ったこともあります。ある大規模な交通事故で負傷者が運び込まれた病院での出来事でしたが、ノートやカメラをもってウロウロしていれば怒られて当たり前です。私が取材をするときは、負傷者が座る長いすの横に座るか、前にかがんで目線の高さを同じにして、ゆっくり話し始めます。そのときはノートを取るべきではありません(カメラもバッグに入れておく)。じっくり話を聞けばいいのです。そして、最後に名前や住所を聞き、写真を撮影していいか尋ねれば大半の人が承諾してくれます(もちろん断られる場合もありますが、その際は丁重にお礼を言って次の人と話す)。

今マスコミの内部でも警察取材やガン首取りを「悪」と決め付ける人たちがいますが、その場しのぎの議論でしかありません。何事にも功罪があるのです。問題はOJT(オンザジョブトレーニング)やきれいごとばかりの研修(本気できれいごとでマスコミが変わると思っている人もいるので始末が悪い)にもあります。

ただ、結局のところ最後は、現場での一人ひとりの記者の判断になるでしょう。あまりに組織に忠誠を誓うがあまり、上司から指示された仕事(顔写真を取る、住所や名前を聞く)しか見えなくなってしまえばトラブルは避けられません。そんな社畜記者があまりに多い(過去は私もそうだった)ことが、今のようなマスコミ不信の原因のひとつでしょう。以前に詩人の谷川俊太郎さんを取材したことがありましたが、谷川さんは「私は17歳から詩を書いていますが、常に詩の力や言葉に疑問を感じながらやってきました。疑問を感じているからこそ今までできたのではないでしょうか」と話していました。私はこの言葉を自分自身の胸に刻みました。