ガ島通信

メディアとジャーナリズムの未来を追いかける

共同ブログ問題

共同通信編集員のブログ 署名で書く記者の「ニュース日記」問題は、記者が知らず知らずのうちに陥ってる立場が問題になったと考えています。

簡単に言えば、記者は常に、誰かにものを申す立場であって、申される立場ではないと考えている(知らない間にそう思い込んでしまう)ということです。
例えば記事に対するクレームがある、そうすると記者は「一部の人間が文句を言ってる。大多数の人は何も言ってこないじゃないか(つまり何も言ってこないから賛同しているのだと自己を正当化しようとする)」となります。誰しも自分の書いた記事が批判的に読まれていることは想像したくないものですし、事実会社までクレームをつけてくる人はかなり変わった人が多い感じがしますし…。普通の人は、多分クレーム言ってもまともに請合ってくれないとあきらめちゃってるふしもある。本当は声なき声の中に批判やいろんな提言があるのに、市民と記者の立場があまりに離れすぎてて声が届かない。これは既存メディアがかかえる非常に大きな構造的問題だと私は考えています。

もちろん改善すべき点ですが、現状はそうだということです。その状態の上にいるから「ちょっと言いすぎたかもしれないが、こういうのが鼻持ちならないというやつだ。読んでいる人たちにはぜひ言いたい。こんなのにだまくらかされていてはいけない!」と編集委員はカル〜く言ってしまうわけです。彼はまったく悪意はなかったと思います。普通に新聞のコラムに書くつもりで、書いた。相当やばい記者になると「俺が市民を代弁して言ってやってんだ!」なんていう勘違いを引き起こすところまで行ってたりしますが、そこまでの雰囲気は文章から感じられませんが、そんな「まとも」な人でも、知らない間に、説教を書いちゃうところに根深い問題があると思います。多分私の文章も偉そうな感じが受け取りようによってはあるのかもしれない…。

しかし、ブログはそうではなかった。双方向のメディアであったことに、批判的なトラックバックやコメントがあって「初めて」(たぶん本当に初めて)気づいた、いやまだ気づいていないかもしれない。それとも気づいているが、立場上気づいていないふりをしているのかも?そんなところではないでしょうか。
「ネットは新聞を殺すのかblog」に「優れた論評が数多く出ているが、そのほとんどは一般ブロガーの手によるもの。参加型ジャーナリズムの将来を占う大事件だというのに、商業ジャーナリズム側からは目立った意見が出ていない」と出ていましたので、商業ジャーナリズムの端くれとして自分の考えを述べてみました。

なお、「大事件」とはほとんどの人が思ってないと思います。このblogで話題になっているように、「そんなブログなんてやるからだよ」って多くの記者は思っているし、まずブログを知らない(涙)。私個人としては、商業ジャーナリズムと参加型・市民ジャーナリズムが始めて実感を伴ってぶつかった(決して悪い意味でなく)事件として真剣にとらえています。それと、共同の方の不幸は社名を背負って業務としてブログをしているということかもしれません。マスコミといえ日本の会社の抱える問題はみな同じ。責任問題になるのが一番嫌です。だから閉めざるを得なかった。いや閉めるという対応しか思いつかなかったのでしょう。だから再開したことには私も評価したい(って何様なんだ?!)と思います。ブログをやっている多くの人も社の看板を背負っていると、なかなか難しいところもあるんじゃないでしょうか?ただ、あの文章の最後「だまくらかされる」って何にどう騙されるのかよくわからないのですが…

Yoshiさんから激励のコメントいただきました。本当にありがとうございます。新聞を待っている人がいるのだと心強くなりました。ブログ初心者なのでこんなときの対応がよくわかりませんが、まずはお礼まで。
追記(12月15日)切込隊長VS団藤氏の対決もこれと同じような構造の気がします。